「銀河鉄道の夜」をご視聴頂きまして誠にありがとうございます。

夏休みスペシャル 世界の名作2作品同時配信「銀河鉄道の夜」をご視聴頂きまして誠にありがとうございます。
お楽しみいただけましたでしょうか?
この映像は東京ノーヴイレパートリーシアター時代の2009年2月1日に
両国シアターΧで公演した時のものです。
初演は2007年11月22日、
元劇団員が原作を上演台本におこし、色々なシーンを試しては、バッサリ切ったりつないだりして、今の形になりました。そして初演時から変わっていません。

〜けれどもほんとうの幸いって一体なんだろう〜

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
と言った賢治さんの言葉は、この地球上の何処かで争い事が起こったり、災害が起こったときに、
あぁそうかと心のざわつきの元に気付かされます。
いつのまにか自分の事ばかりに埋没し、こんな時にしか思い出さないなんて、と恥いるばかりです。

けれども、
「こんな暗闇なんか全然怖くないよ!
 きっとみんなの本当の幸いをさがしに行く.どこまでもどこまでも僕達一緒に進んで行こう」

とジョバンニが誓ったように、

今この世の中が暗闇にあるのは
もしかしたら、私たちのこころの中に眠ってる宝物、みんなの本当の幸いを見いだす勇気を与える為なのかも知れないとそんなふうに思えてなりません。

大事なことは目には見えないこころで見なくちゃとサン=テグジュペリも星の王子さまの中で、キツネに語らせていますが、
賢治さんは自分の書くものは心象スケッチと呼んで、心の目で見えたものをそのまま書いていると童話の序文にもあります

「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風を食べ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおりかいたまでです。」

実際に宇宙に行かなくても、宇宙に行けるし、
沢山ものを持たないでも、目に見えないものを見たり聴いたり出来るそういうこころがあれば、
これ以上の喜びはないと賢治さんは私達に証明してくれたのではないでしょうか?
こんなに沢山の童話や詩を遺してくれたのですから。

蝉の鳴き声が止みそうにない午後の昼下がり
私にはそれ以外は何も聴き取れませんが、いつか見えたり聴こえたりする日が来るのかもという希望を持ちつつ
最後に賢治さんの言葉を少しお借りして終わります。

この映像作品が、みなさまのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

同時配信しております星の王子さまも併せてご覧いただけましたら幸いです。

ありがとうございました。

制作  川北裕子

宮沢賢治 略歴

明治29年(1896年) 岩手県花巻市豊沢町に長男として生まれる。家業は古着屋兼質屋
明治36年(1903年)  花巻町立花巻尋常高等小学校に入学 前年の凶作で東北地方は飢饉
明治42年(1909年)  小学校を優等で卒業。県立盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)入学。寄宿者に入る。
この頃より短歌を創作し始める。鉱物採集に熱中。
大正3年(1914年) 盛岡中学校卒業
大正4年(1915年)   盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)首席入学。寄宿生活。
大正5年(1916年) 「アザリア」「校友会会報」を通じて、短歌を発表。
大正7年(1918年)  盛岡高等農林学校を優等で卒業。研究生として残る。妹としが発病、上京し看護のあたる。
この頃より。童話を書き始める。
大正8年(1919年) 妹としの全快により、帰郷、家業を手伝う。
大正9年(1920年) 地質学研究科を終了 国柱会に入会し、 法華経信仰に励む。
大正10年(1921年) 上京、出版社「交信社」に勤務。音楽に熱中。12月群立稗貫農学校の教諭となる。
大正11年(1922年) 「春と修羅」を手掛けるなど、詩作活動が活発となる。11月妹としが亡くなる。
大正13年(1924年) 「春と修羅」 「注文の多い料理店」を自費出版。
昭和元年(1926年) 3月花巻農学校を退職。 農耕自炊生活を始める。8月 羅須地人協会を設立
昭和2年(1927年)   肥料設計、稲作指導を活動的に行う。詩作活動にも励む。
昭和3年(1931年) 過労と栄養不足のため、急性肺炎で病床に伏す。この頃より各種雑誌に作品を発表。
昭和6年(1931年) 東北砕石工場の技師となる。石灰の宣伝販売のため上京するが発熱し、帰郷。
再び病床の伏す。11月3日「雨ニモマケズ」を書く。
昭和8年(1933年) 各雑誌に多くの詩を発表。9月20日、急性肺炎となり、9月21日、37歳で永眠。




2009「銀河鉄道の夜」_1

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