ゴーゴリと演劇

ゴーゴリはロシア文学だけでなく、演劇の世界でも大きな足跡を残しました。

1836年、彼の代表作となった『検察官』は、初演と同時にセンセーショナルな論争を巻き起こし、あまりの影響力に驚いたゴーゴリはロシアから逃げ出してしまうほどでした。(ゴーゴリ、27歳の時です。)

「ゴーゴリ」ラブス画 1840年(31歳頃)

今回は、ゴーゴリの生涯の中から、演劇にかかわったエピソードを幾つか紹介したいと思います。

ゴーゴリは、天性の演劇的な才能を持っていました。それはおそらく父親譲りの才能だったと言われています。
彼の父はウクライナの小地主でしたが、若いころ神学校で教育を受け、後年、地元の催しで頼まれるとウクライナ語で戯曲を書き、演出もやったようです(その台本は今も保管されているそうです)。幼いゴーゴリは父の舞台を夢中になって見ていました。

ゴーゴリは、先に2人の男の子が死産続きの後に生まれた、しかも家族中、唯一の男の子でした。
一つ下の弟がいましたが、仲の良かった弟は9歳で亡くなってしまいます。
小さいころから大変甘やかされて育ったようです。

そんな背景もあってか、ゴーゴリは小さいころから虚言癖があり、プライドが高く、とにかく人格的にはかなりマイナス面が強い人でした。でもその一方ではたしかに巨大な才能を持っていたので、周りは、彼の二面性に振り回され続けるのですが、その話はまた別のところで紹介しましょう。

ゴーゴリのアマチュア演劇時代

そんなゴーゴリ少年は、1821年(12歳)に、ネージン市(ゴーゴリが住んでいたポルタヴァから300キロほど離れた地方都市)に新しくできたばかりの高等学校(ギムナジウム)に入ります(19歳になる1828年6月まで)。

ゴーゴリの通ったネジン市の高等学校(ギムナジウム)_2
ゴーゴリの通ったネジン市の高等学校(ギムナジウム)_2

親元から離れ、ただ一人、寄宿生活を強いられた少年は、なかなか学校にもクラスメイトにもなじめないまま、無気力で怠惰な生活を送っていたようです。ところが、ゴーゴリ少年が16歳の時、父親が突然亡くなります。

父の死は、内面の大きな転機であったと思われます。孤独な少年は、文学好きな少年たちのサークルに交わるようになり、やがて夢中になって詩作に励みます。(この時期に特に影響を受けたのは、当時、新しい詩のスタイルをもって登場してきたプーシキンでした。後年、憧れのプーシキンと親しくなれたことは彼の文学の才能の開花を促します。)
少年たちのサークルは、やがて同人誌を作るようになり、学校の中でアマチュア演劇の公演を行うようになります。そして彼の舞台はいつも大成功を収めました。

伝記作家のアンリ・トロワイヤはその様子をこんな風に描いています。(アンリ・トロワイヤ『ゴーゴリ伝』より)

「…ニコライ・ゴーゴリが舞台に姿を見せると場内にどっと爆笑が沸き起こった。それもうまく変装した役をやらせると、彼の右に出るものはいなかった。しゃがれ声で、歯抜けで、ぶつぶつ言っている老人や、おしゃべり女に扮装して出てくると、級友たちは腹をかかえて笑い転げ、やんやの喝采を送った。…」

「16歳のゴーゴリ」制作者不明_1827
「18歳のゴーゴリ」制作者不明_1827

以下は、級友バシチェンコの証言です。

「…当時は誰もが、ゴーゴリは役者になると信じて疑わなかった。役者としては、未曽有の素質に恵まれていた。物まね、メーキャップ法、声色を変える発声法、自分が演じている役になりきる天賦の才。」

以下は、級友バジーリの証言です。

「…私はモスクワやペテルブルグでも、フォンビージンの戯曲『親がかり』を見たが、プロスタコーワ夫人の役を、あの当時16歳で演じたゴーゴリほど見事に演じきれる女優は、後にも先にも彼をおいていないだろうと確信している。」

しかし、詩人として、俳優としての成功の夢はあっけなく消えます。

ネージンの高等学校を卒業すると、青年は自分の才能と成功を夢見て、さっそく首都ペテルブルグに出てきます。
そして自作の恋愛詩『ハンス・キュヘルガルテン』をペンネームで自費出版するのですが…、批評家たちからボロボロに酷評されてしまい、ショックを受けた青年は本を全部回収して燃やしてしまいます。そして母親の金を使い込んで、ドイツの海岸沿の都市リューベックへ逃げ出してしまうのでした。


1ヶ月後、お金を使い果たして戻ってくると、もう一度、自分の才能を試してみたくなり、今度は、帝国劇場の劇場主に「俳優として雇ってほしい」と直接申し込んでオーディションを受けます。しかし、居並ぶ俳優や演出家の前で委縮してしまい、惨憺たる結果になってしまい、あっけなく「俳優としての成功」と言う夢は終わってしまいました。

こうしてやむなく官公庁に入り、下っ端役人として働き始めるのですが(もちろん、青年は不平たらたらですが、実はこの時の体験が、『検察官』を始めとした数々の名作の下地となるのです。「人間万事塞翁が馬」を地で行く話です。)、
働きながら細々と書いた作品を投稿し続けているうちに少しづつ作品が評価され始め、ある時、プーシキンに紹介され、彼と親しくなったところから、ゴーゴリ青年の人生は大きく変わっていきます(ゴーゴリの生涯は、プーシキン抜きでは語れません。ぜひ、改めて記事で紹介をさせてください。)

「ゴーゴリ」プーシキンによるイラスト
プーシキンが描いたゴーゴリの似顔絵
プーシキン自画像_2
プーシキン自画像

「検察官」の上演とゴーゴリの煩悶

1836年に発表されたゴーゴリの「検察官」は、当時の官僚社会に対する痛烈な皮肉と弾劾です。普通であれば、確実に検閲に引っかかり、陽の目をみることはありえない内容でした。けれども文壇の先輩たちが知恵を絞り、策略をめぐらせ、ついに奇跡が起きます。皇帝ニコライ1世がこの作品の上演を認めたのです。(伝説ですが、ニコライ1世はこの時、宮内官による朗読を聞きながら、椅子から転げ落ちるほど笑ったそうです。ただ、あくまで伝説です。)

ニコライ1世
ニコライ1世

ニコライ1世といえば、世界史でおなじみ、1825年即位と同時に起こった「デカブリストの乱」で、徹底的な弾圧を行った皇帝です。デカブリストと交際のあったプーシキンは、その後、ニコライ1世自身が創設した秘密警察の監視下による生活を余儀なくされます。また後年、1849年にはドストエフスキーが、社会主義の秘密サークルに参加したことから逮捕され、シベリアに流刑されます(最初は死刑判決。その後、ニコライ1世の特赦で流刑に減刑)。そんな皇帝が、この作品に許可を与えたというのは奇跡としか思えません。

ゴーゴリはこの話に有頂天になって喜びますが、実はここから受難が始まるのでした。

皇帝の許可を得たことから検閲も難なく通り、その年の4月にはペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場での初演が決まります。ところが、宮廷の権威ある劇場の俳優たちは、作家とその作品を冷ややかに迎えるのです。

アンリ・トロワイヤはその様子をこんな風に描写しています。

「…俳優たちを集めて『検察官』の朗読が行われたのは俳優ソスニーツキーの家でだった(ソスニーツキーは後で市長役を演じます)。顔をそろえた俳優たちの前に姿を現した、作者ゴーゴリはよそよそしく迎えられた。そこにずらりと顔を並べているのは、彼の親しい友人たちではなく、うわべだけ興味があるように見せているが、その実、審判に来ている連中だった。…」(『ゴーゴリ伝』)


「…リハーサルに入ると、彼らの嫌悪感もむき出しになった。(中略)…難癖をつけ、セリフをカットしてほしいとか変えてほしいと言い出すものが続出した。そうかと思うとどうにかして笑ってもらおうとオーバーに表現してひょうきんな顔をして見せる者もいた。彼らの無理解にほとほと手を焼いたゴーゴリは、ただの道化に終わってしまわないよう、神経をとがらせ、文書で俳優に注意書きを渡し、飾り気なく、率直な演技をしてほしいと頼んでいる。」

戯曲『検察官』には、作品の冒頭に「性格と衣裳 (俳優諸君への注意)」という注釈が入っています。おそらくは、この時の俳優たちとの葛藤から新たに挿入されたものかもしれません。
また、この時、ゴーゴリは自筆で「検察官」の最後の場面のスケッチを残しています。これもまた宮廷の権威ある俳優たちとの闘いの中で、なんとかして自作の本質を理解してもらおうと奮闘していた証だったのでしょう。

ゴーゴリ自筆の『検察官』最後の場面
ゴーゴリ自筆の『検察官』最後の場面

しかし、実はゴーゴリを評価した俳優たちもいました。ペテルブルクの名優ソスニーツキーと、モスクワの名優シェプキンです。ペテルブルクでの初演では、ゴーゴリはほとんどソスニーツキーとだけしか話さなかったそうですし、シェプキンは生涯、ゴーゴリのことを高く評価していたと言われています。

市長(ソスニーツキィ)
市長を演じたソスニーツキィ(サンクトペテルブルク)
市長を演じたシェプキン(モスクワ)

1836年4月19日、ペテルブルクのアレクサンドリンスキイ劇場で初演の幕を開けると、冒頭で紹介した通り、場内は非難と称賛の声が飛び交い、たまりかねたゴーゴリは劇場を逃げ出してしまいます。続いて5月にはモスクワのマールイ劇場でシェプキンが上演。シェプキンは何度もモスクワにゴーゴリを招きますが、初演の失敗(?)に懲りたゴーゴリは頑なに拒絶します。

そしてついに、その年の6月には、ロシアから逃げ出してしまったのでした(ゴーゴリ、27歳)。以後、ゴーゴリは海外で作家活動を続けます。そして旅の途中で、自分が創造の手本としていたプーシキンの死を知らされるのですが、また改めて。

俳優が残したゴーゴリのスケッチ

実は、ペテルブルグでの『検察官』初演の公演に出演した俳優、P.A.カラティギンが当時のゴーゴリのスケッチと印象のメモ書きを書き残しています。(P.A.カラティギンは、当時の有名な喜劇俳優でした。なお余談ですが、この俳優はいろんな有名人のスケッチを残しているそうです)

ピョートル・アレクセーエフ・カラティギン
スケッチを残した P・A・カラティギン

「1836年の4月、劇場では新しい喜劇の稽古が始まった。検閲で禁止されると噂されたこの喜劇は、ジュコフスキーの熱心な取りなしにより、皇帝自身による上演が許された。この作品を作者自身がソスニーツキーの自宅で読んだとき、(中略)…ほとんどの役者は困惑してしまったと言ってよかった。”何なんだ?” と、朗読が終わった後に聞き手同士で囁き合っていた。彼は上手に読んでいたが、それはどんな種類の言語なのだろう?下男は下品な言葉で話し、鍵屋のポシュレプキナはセンナヤ広場の一介のおばさんである。私たちのソスニッツキーは、ここで何を賞賛しているのだろう?ジュコフスキーやプーシキンがなぜここにいるのだろう?…(後略)」

この覚書のような記事は、カラティギンの息子が後年、発表したものです。

そしてこの『検察官』のリハーサル中、カラティギンは楽屋で、衣装の包装紙を二つ折りにして、ゴーゴリの肖像画をスケッチしていたのです。

カラティギンによるゴーゴリのスケッチ(1836)
カラティギンによるゴーゴリのスケッチ(1836)

ちょっと番外エピソード 「ゴーゴリの朗読」

そんなゴーゴリは、朗読が大変にうまかったそうです。

1835年に、ゴーゴリが自身の短編喜劇「結婚」を朗読した時の様子を、同席した作家のアクサーコフが語っています。

「…彼の朗読の仕方があまりにも見事で、というより圧倒される演技だったので、あの日にそれを聞いた大勢の人たちは、“どんなに最高の俳優陣であの戯曲を劇場で演じても、あの時、原作者自身が読んだのには及ばないだろう”、といまだに言っている。彼が読むと、からっとして明るく、弾けんばかりだが、まとまっていて、それでいて笑いがこみあげてきたものだ…客の中には、あまり笑いすぎて、お腹が痛くなった者もいたほどだった。」(アンリトロワイヤ『ゴーゴリ伝より。p132~)

そしてその年の暮れに新作『検察官』の原稿が仕上がると、翌1836年1月、友人で文壇の先輩であるジュコーフスキー邸で、プーシキンら多くの文人たちを前に、この喜劇のお披露目として朗読します。

作家 ツルゲーネフはその晩をこう振り返っています。

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A0%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D0%B7%D0%BE%D1%80_(%D0%BA%D0%BE%D0%BC%D0%B5%D0%B4%D0%B8%D1%8F)

「…ゴーゴリの朗読は素晴らしく、その物腰の極めて単純さと抑制、聞き手の存在やその考えを気にしないかのような、重要かつ同時にナイーブな誠意が印象的だった。ゴーゴリは、自分にとって初めての対象をどうとらえるか、自分の印象をどう伝えるか、そればかりを考えていたようだ。その効果は絶大だった。…」

ツルゲーネフ(作家)

一方、「検察官」という作品は、賞賛をもって受け取る人と拒絶する人に分かれました。(同上より)

例えば、このパーティに出席していたローゼン男爵という人は、ゴーゴリの朗読を聞いた時、その場でただ一人、作者に微塵の賛同も示さず、一度も笑わなかったことを誇りに思い、この芸術にとって不快な茶番に乗せられて、朗読中笑い転げたプーシキンを残念に思ったことを、後になって書き残しています。

イーゴル ローゼン男爵(詩人、劇作家、評論家)

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