サン=テグジュペリに大きな影響を与えた航空郵便「アエロポスタル社」

サン=テグジュペリは、1926年~31年にかけて、航空郵便会社アエロポスタル社で飛行士として働き、その体験をもとに作品を書いています。
彼の主要な作品を以下に挙げてみましょう。
『南方郵便機(1929年)』
…アエロポスタル時代の経験をもとにした半自伝的小説。
『夜間飛行(1931年)』
…アエロポスタル時代、任務地のアルゼンチンでの郵便飛行を題材にした小説。
アンドレ・ジッドが序文を書き、フランスで大きな反響を呼んだ作品。
『人間の土地(1939年)』
…エッセイ・回想録の形で、1930年アエロポスタル時代のギヨメのアンデス遭難、1935年の砂漠の墜落体験などが、彼独自の哲学的省察とともに綴られている。全米図書賞を受賞した代表作の一つ。
『戦う操縦士(1942年)』
…1939年、第2次大戦開戦とともに偵察飛行隊に志願。1940年、ドイツ軍が制空権を握るアラスへの偵察飛行を敢行、奇跡的に生還。この偵察任務の体験を書いたもの。
『星の王子さま(1943年)』
…この作品は児童書ですが、その随所にアエロポスタル社時代の体験が埋め込まれています。ここでは、作品成立のエピソードを紹介します。
1940年、フランスがナチスドイツに占領され、サン=テグジュペリは亡命に近い形で渡米します。渡米先の約3年間、彼はレストランのナプキンや手紙の余白に「小さな男の子」を描き続けました。それを見た出版者の妻に勧められ、一気に書き上げたのが『星の王子さま』(1943年)です。
出征前夜、軍服姿で友人シルヴィア・ハミルトンの家を訪れ、くしゃくしゃの紙袋を置いていった。「何か立派なものを贈りたいが、これしか持っていない」。袋の中にあったのが、その原稿と挿絵の全てでした。
※自筆のコーヒーの染みとタバコの焼け穴が残る原稿は、今もニューヨークのモーガン図書館に保管されています。
『城砦(遺作)(1948年刊)』
…未完のまま残された草稿を死後に編纂したもの。
砂漠の帝国を統べる王が語る思索の独白の集積という形式。物語の筋はほとんどない思索の記録。

こしてみると、彼の作家活動の源泉は、アエロポスタル社時代の体験が土台になっていることが分かります。アエロポスタル社で空を飛んだ約5年間(1926〜1931年)が、いかに濃密な時代で、いかに彼に深い影響を与えていたかが伺えます。
- 砂漠の孤独と星空
- 仲間を失う恐怖と連帯感
- 死と隣り合わせの飛行
- ムーア人との異文化の接触
- ギヨメやメルモスという個性的な人間たちとの友情
これらがすべて、のちの作品の核になっています。
ところが今回、改めて調べてみると、このアエロポスタル社について正面から取り上げた日本語訳の文献が、現時点では、ほとんど存在していないことが分かりました。
そこで今回の記事では、このアエロポスタル社を取り上げながら、サン=テグジュペリの生涯と作品形成についてたどってみたいと思います。
アエロポスタル社とは
アエロポスタル社は、1918年、創業者ラテコエールが、この時代には無謀ともいえる航空郵便事業を立ち上げた会社です(創業当初はラテコエール社)。ここにサン=テグジュペリ、ギヨメ、メルモスという3人の才能ある飛行士が集まります。彼らに鉄の規律を教え、鍛え上げたのは ”鉄人” とあだ名されたドーラでした。
しかし1927年、南米路線への拡張資金を調達するため、ラテコエールは会社を売却して「アエロポスタル社」に変わります。ラテコエール自身は取締役として残りながら、本来の専門であった飛行機製造業に専念します(彼の創業プランは、自社で飛行機を造り、その飛行機で郵便事業を展開するというものでした)。けれども社内で自分の意見が通らなくなったと悟り、早くも翌年28年に取締役を辞任しました。
結局、実質的に「アエロポスタル社」を支えていたのは運航部長のドーラでした。彼は皆から恐れられながらも同時に皆の精神的支柱として会社を守り続けました。
皮肉なことにラテコエールが去ってから、アエロポスタル社は黄金時代を迎えます。メルモスの大西洋横断の成功(1930年)、アンデス路線の完成、南米各国への路線拡張。
しかし1929年の世界恐慌と政治的混乱で1931年に経営破綻。翌32年には法的に解散が決まり、結局フランス政府の意向でエールフランスに吸収されるという、ラテコエールが最も避けたかった形で終わりを迎えました。
最終的には1933年、フランス政府が複数の航空会社を統合する形でエールフランスが誕生し、アエロポスタルはその中に吸収されて消えます。
フランスの国際公共ラジオ放送局RFIは、アエロポスタル社の業績を「おそらく航空史上、最も偉大な冒険」と表現しています。
創業者ラテコエールの「狂気のプラン」

1918年12月25日、フランスのトゥールーズで、ピエール=ジョルジュ・ラテコエールがアエロポスタル社を創設。彼のビジョンはシンプルかつ当時としては非常識なものでした。
—— 飛行機でフランスから西アフリカを経由し、さらに南米まで郵便を運ぶ、というもの。
当時の飛行機の航続距離をはるかに超えた事業計画に、友人知人は皆「頭がおかしい」と笑ったそうです。ラテコエール自身は重度の近視でパイロット免許がなかったが、それでも自らトゥールーズ〜バルセロナ初便に乗り込んでピレネー山脈を越えて、次の有名な言葉を残します。
「不可能なことは分かった。だから実行する。」
ラテコエール社の公式サイトは彼を「1920年代のイーロン・マスク」と表現しています。
当時の飛行がいかに危険だったか
この時代の飛行機は計器がほぼなく、ラジオも不安定で、エンジンはよく壊れ、航路の大半は人跡未踏の砂漠か大洋でした。
トゥールーズ〜ダカール区間だけでも1200キロの砂漠越えが含まれ(総距離は約4,500km)、不時着すれば遊牧民に捕まって身代金を要求されるか、そのまま砂漠の中で渇死するかのどちらかでした。
当時、使用された機体 のスペック

当初は、第一次大戦の余剰機(ブレゲー14などの複葉機)を改造して使用しています。のちにラテコエール自身が設計した専用機を導入しました。
アエロポスタル社が主力として使用していたブレゲー14型の実際のスペックは:
• 通常の航続距離:約260〜730km
(搭載量や燃料タンクによって変動)
つまりラテコエールが構想した「トゥールーズ〜ダカール間の約4,500km」は、当時の「通常の飛行距離」の 6〜17倍という計算になります。
周囲が「狂気の計画」と笑ったのは、数字の上でも全く理にかなっていたわけです。
これを可能にしたのが中継地点の整備 —— 燃料・部品・予備機を置いた中継基地を数百キロごとに設置するという、インフラごと作るという発想でした。
例えば、カサブランカ〜ダカール間(約2,760km)の実際の運航を見ると、セネガル・オンラインの記事によれば、6つの中継地点が設けられていました:
アガディール → ケープ・ジュビ → ビジャ・シスネロス → ポール=テティエンヌ → サン=ルイ → ダカール
2,760kmを6区間に分けると、1区間あたり約400〜500km。ブレゲー14型の航続距離(約560〜730km)の範囲内に収まります。
こうした工夫で運航は可能になりましたが、問題はむしろ別のところにありました ——
• 中継地点の多くは砂漠の真っ只中で、施設といえば燃料タンクと予備部品の小屋だけ
• エンジントラブルで中継地点に届かず不時着すれば、次の中継地点まで数百キロの砂漠を歩く
• ケープ・ジュビ周辺は、遊牧民の支配地域で、不時着イコール捕虜・身代金要求のリスク
距離の問題は中継地点で解決したが、着陸できない場所に不時着する恐怖は消えなかった、ということです。インフラを作ること自体が、すでに命がけの仕事だったわけです。
砂漠区間の過酷な現実
Atlas Obscuraの記事によると、アエロポスタルの歴史家ジャン=クロード・ニベの言葉が当時をよく表しています——「すべてが実験だった。すべてが新しかった。悪天候でも飛ばなければならなかった。さもないと政府や郵便局との契約を失うからだ」。
モロッコ〜ダカール間のサハラ区間では、遊牧民の反乱部族が頻繁に飛行機を撃ち、不時着した搭乗員を人質として捕虜にしていました。
1928年には、2名のパイロットが117日間も拘束されており、当時28歳のサン=テグジュペリが身代金交渉に当たって解放させました。この功績でフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受けています。

Par Auteur inconnu — Gallica, L’Aéronautique, Janvier 1931 [1], CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=115316693
運航部長 「鉄人ドーラ」

運航部長ディディエ・ドーラ(元、第一次大戦の戦闘機パイロット)は、会社の精神的骨格を作った人物です。
ウィキペディアによると、
彼は「わずかでも弱さの兆候を見せた者、自分のやり方に疑問を呈した者、『郵便の精神』に沿わない者は即座に解雇した」。
パイロットたちは入社すると最初に整備工として働かされ、エンジンを分解・清掃・組み立てることから始めた。
「機械を尊重することが人格を作る」というのがドーラの哲学だった。
この哲学は、のちにサン=テグジュペリたちが遭難した際に実証されるのです。
彼の言葉——「郵便は届けなければならない(Le courrier doit passer)」——は皆の合言葉となります。
採用面接の伝説エピソード
入社試験は実技飛行一発。採用責任者でした運航部長ディディエ・ドーラはこう言っていたことで有名です。
「曲芸師は要らない。バスの運転手が必要だ。」
しかし実際に採用されたのは、死を恐れない男たちばかりでした。
実際、メルモスは面接で危険なアクロバット飛行を見せて一度落とされ、おとなしくやり直して合格しました。
「ラ・リーニュ(La Ligne)」という精神
社内では会社のことを単に「ラ・リーニュ(路線)」と呼びました。
仲間意識は異常なほど強く、誰かが不時着すれば全員が捜索に飛びました。
「郵便は届けなければならない(Le courrier doit passer)」は運航部長ドーラの口癖であり、パイロットたちの倫理綱領でした。
ラ・リーニュの特別な連帯感
この会社には特別な連帯感がありました。
• 新入りは整備工から始め、機体の怖さと尊さを体で覚える
• 不時着した仲間の捜索は全員で行う義務があった
• ドーラは厳しかったが、有能な者を見抜く目は確かで、メルモスのような「問題児」も最終的には採用した
• パイロット同士は国籍・階級を超えて「ラ・リーニュの男たち」として結びついた
このラ・リーニュの精神がサン=テグジュペリの「人間の連帯」という思想の核になった、と言われています。
資本家でもなく、伝説的なパイロットでもない ——
しかしメルモスもギヨメもサン=テグジュペリも、彼への畏敬と愛情を生涯持ち続けていました。
サン=テグジュペリは『夜間飛行』の主人公リヴィエール(峻厳な航空会社支配人)のモデルをドーラに求めています。
「冷酷に見えるが、その厳しさの奥に深い人間への愛がある」
1933年、アエロポスタル社は経営難からエールフランスへ統合されます。
その際、ドーラはアエロポスタル社のスキャンダルに巻き込まれ、サン=テグジュペリらが懸命に弁護するも、1933年にまっさきに解雇されました(後に復帰するも再解雇)。
最も会社を支え続けた最大の功労者が、最後には真っ先に切られたというのは皮肉な結末でした。
サン=テグジュペリの大切な仲間、メルモスとギヨメについては、次号で紹介します。
お待ちください。

(アエロポスタル社のパイロットたち)
